君たちはどう生きるかを観て

これは、あくまで個人の感想であり、何か確定でこうだというモノではありません。


映画が終わった後、僕は凄いものを観たと思った。

場内は静まり返っていて、皆ぞろぞろと出ていった。

映画が気に入らなかったのか、はたまた内容について考えているのかは分からない。

売店には列ができていて、少なくない人に何か刺さったようだった。私も並んだが、結局何も買わなかった。この感動を留めおくのであれば、感想を書いた方が良いと思った。

タイトルからも分かっていたが、純粋な娯楽作品ではない。むしろ、観た後に人を悩ませる作品だった。しかし、表現としては今まで通り、あくまで子供の為に作られているように感じた。つまり、悩まされたということはもう子供ではないということか、それともまだ未熟ということか。

とにかく、私はこの凄まじい熱量が逃げる前に、映画を観た今の感想を書きたいと思った。


ここから先は映画の内容にも触れるので気になる人は読まないように。


最初、空襲警報から始まって、戦争をメインに据えるのだなと思った。

母親の病院が火事で、主人公は走り出すが、思い返したように寝床に戻って浴衣から服に着替える。これは主人公の育ちの良さや服を着ないと危ないような状況であることが分かっていることを表現しているのか、知識が足りず分からないがこだわりを感じた。

空襲の中を走り抜ける描写は、凄いとしか言いようがなかった。歪みうごめき、熱と混乱をどうにか伝えようとしているのだと感じた。

戦争かと思ったらいきなり、田舎へ疎開して、かなり穏やかになった。人力車の沈み込み、こけそうになる体の動き、歩き方に階段の登り方、本当にきめ細やかで素晴らしかった。

ここで自然を描くのだなと思った。自然が、心をいやすのだろうかと思った。

お婆さんたちや古い家の様子はとてもコミカルで、トトロや千と千尋を思わせた。特に、廊下をぞろぞろと歩く様は各々が個性的な歩き方や動き方をしていて特に面白かった。

学校に車で乗り付け、奇異の目で見られ、喧嘩した。ここまでの戦争や学校の様子は、風立ちぬで見たことあるなと思った。

突然、石を頭に打ち付けた。

ここで、主人公の心情が非常に複雑なことを感じた。この感想を書いていて気が付いたが、前半の主人公は本当に言葉が少ない。自分の気持ちは考えについては何も語らず、見えるのはこの自傷行為と、夢だけだ。

父親に心配してほしかったのか、学校へのいら立ちか、新しい母親への不満か、亡き母への思いなのか。そのすべてなのかもしれない。

母の残した本、これが「君たちはどう生きるか」だった。私は、本の内容を知らないが、主人公は何かしらを感じ取って起点となっているのかもしれない。もしくは、作品の外でこの本が何かの起点になったのかもしれない。

アオサギはこれまでの現実的な世界からどんどんと乖離していって、かなりちぐはぐに感じた。最初は主人公の空想や夢なのだろうかと思うほど、他から浮いていた。

塔の中、いかにも魔法の気配のする場所で、ハウルの動く城を思い出した。

一緒に沈んだはずのお婆さんが若い姿になって表れて、幻想的な森と海の世界。紅の豚やもののけ姫も思い出した。

生き物を殺して生きている生々しさ。そして、生き物を殺さない生きているのか死んでいるのか分からない人達。悪者のようなペリカンもただ生きるためで、悪ではなく。

増えた暴力的なインコたち、力を持った石。天空の城ラピュタや宇宙少年コナンやナウシカを思い出す。

沢山の扉、違う場所につながっている暖炉、炎の力を使うヒミ。ここでも、ハウルの動く城を思い出させる。

主人公に怒鳴りつける、新しい母親。ここでの顔はそれまでの優しそうな綺麗な顔ではなく怒りに歪んだ顔で、ある意味本心を語っていたのだろう。もしくはもしかすると、主人公は新しい母親も自分と同じことを思っていて、それでもここまで表に出さずにいたのだと気が付いたのかもしれない。本心を聞けたから、母さんと呼べたのだろうか。

インコたちの主人公への扱いに最後まで観て少し考えた。

それまでは、インコに主人公が攻撃される様に違和感を覚えたりはしなかったが、ヒミを塔の主の子孫として丁重に扱っているのを見ると、主人公も塔の主の子孫なのに不思議だ。

主人公はインコたちに塔の主の子孫として認められていないのだろうか。ヒミには分かりやすい特別な力がある。主人公は特別な力が無いから認められないし、気が付かないのだろうか。

後半はバラバラだった、全てがつながっていく感覚が凄かった。

塔の主の大叔父は、宮崎駿監督のような気がしてならなかった。塔は、監督が作った作品で、主人公は弟子なのかもしれない。歪な積み木は、監督が作った作品そのもので、この作品のいたるところが過去の作品を思い出させる作りになっているのはこのためだろうかと思った。監督は自分の作ったモノを歪で不安定だと思っているのかもしれない。

大叔父がいる場所へ行く回廊、先の見えない光の道、歩くたびに稲妻が体を襲う。完成の見えない創作とその過程の苦しみなのかもしれない。

落ちている大量の積み木。作品にならなかったもしくは、作品を作るときに捨ててしまった何か。

インコ達は何かを始めた人の近くに集まってそこにいただだけで、自分も同じことができると思ってしまった憐れな人達なのかもしれない。特にインコの王様は、自分が後継者だと思っているだけのインコでしかない。妙に王様であることにこだわる言動をする。こんなものと言いながら奪った積み木で誰の目にもちぐはぐな積み木を積み上げて、倒れるなと積み木に命令したり、最後に積み木を真っ二つにしてしまったり。誰の目にも無駄な何も分かっていないように見える行動を取る。

積み木がどうゆうものなのか見定める能力もなく、積み木の積み方も知らず、忠告を聞くこともせず、物言わぬ積み木に命令をして、崩れそうになったら自分で壊してしまう。積み木を作品だと考えると、しっくりと来た。

世界を創る能力が無い事をはっきりと表現したのかもしれない。

ヒミは、インコにも認められているし、力もあるが、大叔父には継いでくれとは言われない。ヒミは塔を創ることとは別の何か大切なものを見つけているのかもしれない。そして、大叔父もそれ尾を知って継がせようとはしていない。

主人公は、特別な力はないが悪意を見抜く能力があり、世界を創る素質がある。ただそれがヒミの能力のように分かりやすくなく、インコたちには見抜くことも気が付くこともできない。邪推だが、宮崎駿からは認められているが、インコたちには認められていない弟子が居るのではなかろうかと思ってしまった。

もしくは逆に、インコの王様が監督なのかもしれない。あるいは、主人公は子供の頃、インコの王様は若い頃、大叔父は今の自分を投影しているのかもしれない。塔の中の時間は過去と未来が入り混じっているのだから。

塔やアオサギなどの、ファンタジーなものへの違和感はいつの間にか完全に消えてなくなっていた。

アオサギは邪魔をしているように見えて、ずっと主人公を導いていた。真逆のように見えて、その実よく似ている。悪い事や邪な考えを持っているようで、実際は主人公を助け助言をする。これも邪推だが、鈴木敏夫プロデューサーがモデルなのではなかろうか。

怪我を悪意の証だと自分でいう、これは自分と向き合うという象徴なのだろうか。

壊れる塔、壊れた塔から出てくるインコは化け物のような姿から、ただのインコに戻ってしまう。王様でも例外ではない。インコに力を与えていたのは塔ひいては大叔父でしかなかった。組織と組織を作った人の力を自分のモノだと思っていた人のことかもしれない。

しかし、塔が壊れるとインコたちもペリカン達も飛べるようになる。塔の力が無くなって、自由になった。ペリカンもそうだったが、インコも悪ではなく塔の力で呪われていただけなのかもしれない。くっきり二つに分かれるではなくグラデーションだということなのか。

聞き流してほしいが、塔はジブリなのだろうか。

大叔父は必死に塔を継いでもらおうとお膳立てをした。悪意に染まっていない積み木を探し、丁寧に13個を3日に1つ詰むようになど助言までする。しかし、それは無駄になる。

ヒミに何かになるかもしれないから拾うなと言われ、大叔父には拾われず、主人公自身が拾った積み木。先人がお膳立てして、用意したものではなく、先人が作った世界にただ転がっていただけの積み木。

これは大叔父が森に有った岩を見つけたように、自分の作品は自分で見つけたものでないと作れないということなのか。それとも、誰かが用意した物では結局インコの王様のように駄目にしてしまうだけだという気付きなのだろうか。そして、作中でそうだったように誰かが台無しにしてしまうまで、これに大叔父も誰も気が付かない。

アオサギが最後に、積み木を良くないとか塔の事は忘れた方がいいとか、忘れる方が普通だという。映画の中でのことなんて観終わったら忘れてくれその方がいいと言いつつ、本当は何かを持って帰ってほしい。そして、その何で新しい世界を積み上げてほしいという表現なのだろうか。

ラストの戦争が終わったことのあまりのあっけなさ、戦争は別に日常から乖離しているわけでもなく、日常の延長でしかなくいということか。

全体を通して、監督の今までのすべてがぶつけられていて、描写にも一切手抜きを感じられない凄い作品だった。水や炎や自然、風、布、人、動物、どれも表情が豊かで、これまでの積み重ねを感じた。

噛めば噛むほど、感想を書いている間にもそういうことだったのかと、思わせられるすさまじいエネルギーがあった。それに当てられて、感想を書き始めた。

売店に並んでいた人たちは思えば、必死に自分の積み木を、この映画を観て得られたものを目に見える形で残せる証になるものを探していたのかもしれない。

そう思うと、あれはインコの王様と同じ行動だったともいえるのかもしれない。

私も今はインコの王様かもしれないが、それだけだとは思いたくない。積み木を持った眞人でもあったと思いたい。もし、今インコの王様だとしても積み木を台無しにするようなことはしたくない。しかし、無意識にそうしているのかもしれない。

この作品は、現状を嘆く作品なのだろうか、自分の作品を見て何かを感じた人たちに向けた希望あるものなのだろうか。その両方なのだろうか。

私は取りこぼしてばかりなので、あれだけの熱量を受けておいて、こんな文章しか書けないのだ。まったく情けない話である。しかし、これらを積み重ねられるようになりたい。

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